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発刊の辞 ( ひらがな漢字交互文 )

◎はっかんの じ ひらがな漢字交互文

しょうわ 27年 4月 28日
昭和 二十七年 四月 二十八日

そうかがっかい かいちょう とだ じょうせい
創価学会 会長 戸田 城聖

しゅうそ にちれんだいしょうにん しょほうじっそうしょうに のたまわく
宗祖 日蓮大聖人 諸法実相抄に のたまわく

ぎょうがくの にどうを はげみそうろうべし
行学の 二道を はげみ候べし

ぎょうがく たえなば ぶっぽうは あるべからず
行学 たへなば 仏法は あるべからず

われも いたし ひとをも きょうけそうらえ
我も いたし 人をも 教化候へ

ぎょうがくは しんじんより おこるべくそうろう
行学は 信心より をこるべく候

ちからあらば いちもんいっく なりとも かたらせたもうべし と
力あらば 一文一句 なりとも かたらせ給うべし と

そうかがっかいは しょだいかいちょう まきぐち つねさぶろう せんせい
創価学会は 初代会長 牧口 常三郎 先生

これを そうせつして いらい この きんげんを じゅんぽうして
之を 創設して 以来 此の 金言を 遵奉して

じゅんしん ごうじょうな しんじんに もとずき ぎょうがくの にどうを はげむと ともに
純真 強盛な 信心に 基き 行学の 二道を 励むと 共に

にょせつの しゃくふくぎょうに まいしんして きたが
如説の 折伏行に 邁進して 来たが

けんごうの しゅぎょうを おもわせるが ごとき その げんかくなる たんれんは
剣豪の 修行を 思わせるが 如き その 厳格なる 鍛錬は

がっかいの でんとう めいよある とくちょうと なっている
学会の 伝統 名誉ある 特徴と なっている

したがって だいしょうにんの ごしょを うやまい これに したしむこと
従つて 大聖人の 御書を 敬い 之に 親しむこと

てんにちを はいするが ごとく また かいいんいちどう
天日を 拝するが 如く 又 会員一同

じょうげ しんきゅうの さべつなく これが けんきゅうに ただいなる じかんを
上下 新旧の 差別なく 之が 研究に 多大なる 時間を

あてているのである
当てているのである

しかるに だいしょうにん ゆいいつの せいとうであり だいけんいである
然るに 大聖人 唯一の 正統であり 大権威である

にちれんしょうしゅうの はっかんになる ごしょぜんしゅうが
日蓮正宗の 発刊になる 御書全集が

かいむに ちかい げんじょうであり
皆無に 近い 現状であり

やむをえず こうかんるふ されている ごしょ によって いたが
やむを得ず 巷間流布 されている 御書 に 拠つて いたが

そうでんなき るる がくしゃなどの へんさんした しょは
相伝なき 流流 学者等の 編纂した 書は

かんじんの ほんぞんしょうを はじめ
観心 本尊抄を 始め

そのた しゅじゅの じゅうようなる おんしょうに おいて
その他 種種の 重要なる 御抄に 於いて

ぎしょを しんしょとなし しんしょを ぎしょと わいきょくするなど
偽書を 真書となし 真書を 偽書と 歪曲する等 

どくしゃを まよわすこと はなはだしく
読者を 迷わすこと 甚しく

とうてい これを しんらいする ことが できないうえ
到底 之を 信頼する 事が 出来ない上

もっとも じゅうようなる けつみゃくしょう ほんいんみょうしょうなど
最も 重要なる 血脈抄 本因妙抄等

にちれんしょうしゅう もんがいふしゅつの おんしょうは
日蓮正宗 門外不出の 御抄は

すでに じょうしを みた いかなる ごしょぜんしゅうにも けいさいされず
己に 上梓を 見た 如何なる 御書全集にも 掲載されず

しゅうその ごしんいを はいせんと ひたすら ねんがんするものを して
宗祖の 御真意を 拝せんと ひたすら 念願する者を して

ひさしく いかんの ねんを いだかしめて いたのである
久しく 遺憾の 念を 抱かしめて いたのである

しかるに しゅうそ にちれんだいしょうにん けんちょう 5年 4月 28日
しかるに 宗祖 日蓮大聖人 建長 五年 四月 二十八日

さんだいひほうの なむみょうほうれんげきょうを おとなえ はじめられてから
三大秘法の 南無妙法蓮華経を 御唱え 始められてから

700年を むかえるに あたり しんぴょうすべき ごしょの はっかんを
七百年を 迎えるに 当たり 信憑すべき 御書の 発刊を

ようぼうする こえが がっかいないに おこり よも また
要望する 声が 学会内に 起こり 余も 亦

せいかくなる ごしょぜんしゅうの しゅつげんは ごほうこうの いちぶんなりと しんじ
正確なる 御書全集の 出現は 御奉公の 一分なりと 信じ

ぜひ こうざい および よひとの ひはんなどに しゅんじゅんすることなく
是非 功罪 及び 世人の 批判等に 逡巡することなく

ただ ぶついを たより だいごほんぞんに いのりたてまつり ついに
只 仏意を 頼り 大御本尊に 祈り奉り 遂に

けいしゅくきねん じぎょうとして これを はっかんせんと はつがん したのである
慶祝記念 事業として 之を 発刊せんと 発願 したのである

これに こたえられて えいねん こぶんしょ けんきゅうに ぼっとうせられて
これに 応えられて 永年 古文書 研究に 没頭せられて

しがくに ぞうけいふかき にちれんしょうしゅう 59せいの ほっすたりし
斯学に 造詣深き 日蓮正宗 五十九世の 法主たりし

ほり にちこう しょうにんげいかが 60ゆうよねんの うんちくを かたむけて
堀 日亨 上人猊下が 六十有余年の 薀蓄を 傾けて

これが へんさんの だいじぎょうに たたれたのは だいしょうにん もんかにとって
之が 編纂の 大事業に 立たれたのは 大聖人 門下にとって

このうえなき しあわせな ことである
此の上なき 幸せな 事である

ほり にちこう じょうにんげいかは 86さいの ごこうれいにて
堀 日亨 上人猊下は 八十六歳の 御高齢にて

にちや ふだんの おんくしんにも かかわらず
日夜 不断の 御苦心にも 拘らず

しんしんともに なんらの ましょうなく すう10年に わたる
心身共に 何等の 魔障無く 数十年に 亘る

おんけんきゅうを けっしゅう せられて
御研究を 結集 せれられて

ここに ほんしょの かんせいを みたのである
ここに 本書の 完成を 見たのである

その ないようたるや ここんを つうじて もっとも ほこりうべき ものであると ともに
其の 内容たるや 古今を 通じて 最も 誇り得べき ものであると 共に

しょしんの ものも ぶついを えとくするに よういならしむる よう
初心の 者も 仏意を 会得するに 容易ならしむ よう

じくの うえにも さいしんの ちゅういが はらわれている
字句の 上にも 細心の 注意が 払われている

また がっかいいんどうしは こころよく しゅっぱんひを きょしゅつして
又 学会員同志は 快く 出版費を 醵出して

よに この だいじぎょうの かんせいを うながし きょうがくぶいんは また
余に 此の 大事業の 完遂を 促し 教学部員は また

これが こうせいに ちゅうやを わかたず さいぜんの どりょくを
之が 校正に 昼夜を 分たず 最善の 努力を

おしまなかったのである
惜しまなかつたのである

しかるに よの ふびんは いくたの かごを おかして
然るに 余の 不敏は 幾多の 過誤を おかして

ほり にちこう じょうにんげいかが しょうがいを つうじての
堀 日亨 上人猊下が 生涯を 通じての

だいけんきゅうに きずを つくることなきやと ひたすら これを おそれ
大研究に 疵 つくることなきやと ひたすら 之を 虞れ

こんごの ほせいに さいぜんの どりょくを つくさんことを
今後の 補正に 最善の 努力を 尽くさんことを

ちかうもので あると ともに
誓う者で あると 共に

この きちょうなる だいきょうてんが ぜんとうようへ ぜんせかいへと
この 貴重なる 大経典が 全東洋へ 全世界へと

るふして いくことを ひたすら ねんがんして やまぬものである
流布して 行く事を ひたすら 念願して 止まぬものである

ねがわくは よのしきしゃ しょけい よの びいを りょうとせられて
願わくは 世の識者 諸兄 余の 微意を 諒とせられて

ごひせい あられんことを
御批正 あられん事を 

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by hiraganagosho | 2012-10-02 20:17 | 発刊の辞(戸田じょうせい)

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