カテゴリ:じょ (にちこう上人)( 2 )

じょ ( 序 )

○にちれんだいしょうにん ごしょぜんしゅう じょ

しょうわ27年 4月の はじめ 
いず はたげの せっせんそうにて 
にちこう ろうそう しるす 

しょうそ けんしゅう 700年を きねんする ほうおんぎょうとして 
さくねんの 6月に そうかがっかいで ごしょぜんしゅう かんこうの びきょが けっていせられ 
そのへんさんを よに ぜひとも ひきうけてくれとの ことであった 

それは よが ふじもんかの ちょうろうでもあり 
がっきゅうでも あるからであろうが 
ともかく せいじゅは 86で ほうろうが 66であり 
にゅうどういらい ししとして 1日も かんじくを はなさぬ べんきょうかである ことを 
がくしゃなみに みこまれた ものと みゆる 
じつは しせいあんぐで いかんする ことも できぬ 
やっと ひとさまの まねぐらいでは とても この たいにんに あたるの うつわでない 
よろしく ごじたい もうして たの がくしょうに ゆだねるのが けんさくであるのに 
むぼうにも よろこんで これを じゅだくしたのは われながら ふかくであったが 
それには たしょうの ふくりょが あった 
ごかいざん にっこうじょうにんに 五 十だいぶの ごせんていがあり 
また ちょうへんの おんひつしゅうが げんぞんしているが 
しょえんを しゃろく されたもので しょうその ぜんぺんではない 

じらい 500年 しぎょうに しょうじんするの めいし いでず 
ようやく きんこになって さいそうだんりんの けしゅで 
また たいせきほんざんの がくとうであった くおんいん にっとうじょうにんが 
はじめて しんじょう そしょの もくろく だけを つくり 
そしょ しゅういの へんしゅうも あったが ぜんぺんではない 
さらに ほんけぶんしゅう 66かんを せいして もんかを ろうして 
はんしたに せいしょさせたが ふこうにして はんこう できなかった のみでない 
しゃでんしゃ すらなく ほんしょが てんてんとして 
たいしょうの だいしんさいで よこはまで うゆうに きしたのは 
ごじしゃの そろうを とがめても おいつかぬ ざんねん せんばんの ことである 
にっとうしの こうはい みょうどういん にってんじょうにんは よが おんしであるが 
とうしの しんてい そしょもくろくを しゅうふくして 
ほんそぶんしゅう 44かん どうそくしゅう 12かんを しゅうせいし 
それが のちに くるめの てんみょうじに おさめて あったが 
いつしか けっぽんと なったのを ほじゅうを めいぜられて かんぽんとし 
いまは わが せっせんぶんこに ある 

よ あんぐで とても げんだいの じいん せいかつは おぼつかないので 
たいしょう 4年から しょうにあわぬ ばんむを ほうかして ほんざんの いちぐうに へいきょし  
がっきゅう せいかつに はいってから どう 8 9年のころに 
とうきょうじんで みょうどうこじ たい そうたろうしの はつがんで 
ときのがくとう じかんいん にっちゅうじょうにんを とおして 
ごしょ へんさんの くわだてがあった 
にっちゅうじょうにんは その しゅにんを じぶんに しょくせられたが 
ふがくを はじて かたく じたいした 

これと ほぼ どうねんに とうきょうじんの そけいこじ みたに ろくろうしが 
やまうちに ざいぼうせし じふぼう にちみょうと ともに きたりて 
ぜんしゅう へんさんの しゅにんを こんせいされたが 
にわかに これに おうずるの ばんゆうは おこらぬ 
そのかわりに しぞうの ざいりょうは 
これを ていきょうするに やぶさかでないと したから 
じふぼうは よるをもって ひにつぎ けんさんに つとめて よも おおいに 
しりょうを かたむけたが  
そけいこじは おもい あきらめず いくどか こんせいを つづけられた 
じふぼうが しなのより とうきょうに てんじて しょうわ4年に 
ごしょ しんしゅう はっかんの ことをきいて 
ひとたびは おどろき ひとたびは よろこんだ 
それは すうねんの あいだ しぎょうの しょうそくを みみに しなかったのと 
この こんなんなことを なしとげた ことであった 
さっそく とりよせてみると そのせいかの よきに 
おおいに はんしたのに きょうがくした 

おもうに よ ひきなりとも したしく さんかして いたならば 
この くい なかりしかと ざんこん ここに としを ひさしうした ところに 
あに はからんや そうかがっかい かいちょう とだ じょうせいしの ねっせいに あわんとは 
ここに みだりに この たいにんを じゅたくしたのは まったく いじょうの えんいんが 
あったからであり かつ また きょらいと いえば ろうどを 
むちうって くれる ぎぎょうの がくしょうの かならず あるべきを よきし 
さいわいに とうじょうして ある かいごうの おりに 
さんかを こんがんしたが いずれも はんたの じょうむの ほかに 
どう きねんしゅっぱんに とくむを おわせられたり とのことで 
ふこうにして ひとりの どうしをも えず 
やむなくば まんいち とちゅう しっぱいの ほじょたるべき じん すら 
とっさに みあたらず このとき すでに ねんまつまで わずかに 
6かげつで ちほうの がくしょうに こうしょう するの よじつも なく 
ひゃっぽう けい つきて ひとえに ぶってんの みょうじょを あおぎ 
わずかに 1 2の がくとに じょうしゃを たすけしめて 
さいまつに せいこうせしは まったく みょうがに よるものと かんきゅうする 
ことに がっかいの きょうがくぶに おいて たいきょ こうせいに あたり 
せいむを さきて ちょうじつ ちょうとを おうふく せられたこと 
および りゃくでん ねんぴょうまで さくせい されたことは 
ぼうがいの ぎょうこうで あった 

ただし へんさんの せいかに そろうなきや 
はたして ほんぶつの めいりょに かなうべきや いなや 
きょうくする ところであるが あえて ろうしんの はいきゅうに たくして 
その せきにんを かいひ するものでは ない 

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by hiraganagosho | 2012-10-07 23:23 | じょ (にちこう上人)
◎じょ ひらがな漢字交互文

しょうわ27年 4月の はじめ いず はたげの せっせんそうにて
昭和二十七年 四月の 初め 伊豆 畑毛の 雪山荘にて

にちこう ろうそう しるす
日亨 老僧 識す


しょうそ けんしゅう 700年を きねんする ほうおんぎょうとして
聖祖 建宗 七百年を 記念する 報恩行として

さくねんの 6月に そうかがっかいで ごしょぜんしゅう かんこうの びきょが けっていせられ
昨年の 六月に 創価学会で 御書全集 刊行の 美挙が 決定せられ

そのへんさんを よに ぜひとも ひきうけてくれとの ことであった
其の編纂を 予に 是非とも 引き受けてくれとの 事であつた

それは よが ふじもんかの ちょうろうでもあり
其れは 予が 富士門下の 長老でもあり

がっきゅうでも あるからであろうが
学研でも あるからであろうが

ともかく せいじゅは 86で ほうろうが 66であり
兎も角 世寿は 八十六で 法臘が 六十六であり
 
にゅうどういらい ししとして 1日も かんじくを はなさぬ べんきょうかである ことを
入道以来 孜孜として 一日も 巻軸を 離さぬ 勉強家であることを

がくしゃなみに みこまれた ものと みゆる
学者並に 見込まれた ものと 見ゆる

じつは しせいあんぐで いかんする ことも できぬ
実は 資性暗愚で 如何する事も 出来ぬ

やっと ひとさまの まねぐらいでは とても この たいにんに あたるの うつわでない
やつと 人様の 真似ぐらいでは 迚も 斯の 大任に 当るの 器でない

よろしく ごじたい もうして たの がくしょうに ゆだねるのが けんさくであるのに
宜しく 御辞退 申して 他の 学匠に 委ぬるのが 賢策であるのに

むぼうにも よろこんで これを じゅだくしたのは われながら ふかくであったが
無謀にも 悦んで 此れを 受諾したのは 吾ながら 不覚であつたが

それには たしょうの ふくりょが あった
其れには 多少の 伏慮が あつた

ごかいざん にっこうじょうにんに 五 十だいぶの ごせんていがあり
御開山 日興上人に 五 十大部の 御撰定があり

また ちょうへんの おんひつしゅうが げんぞんしているが
又 長篇の 御筆集が 現存して居るが

しょえんを しゃろく されたもので しょうその ぜんぺんではない
所縁を 写録された もので 聖祖の 全篇ではない

じらい 500年 しぎょうに しょうじんするの めいし いでず
爾来 五百年 斯業に 精進するの 名師 出でず

ようやく きんこになって さいそうだんりんの けしゅで
漸く 近古になって 細草談林の 化主で

また たいせきほんざんの がくとうであった クオンイン にっとうじょうにんが
又 大石本山の 学頭であつた 久遠院 日騰上人が

はじめて しんじょう そしょの もくろく だけを つくり
始めて 新定 祖書の 目録だけを 作り
 
そしょ しゅういの へんしゅうも あったが ぜんぺんではない
祖書 拾遺の 編輯も あつたが 全篇ではない

さらに ほんけぶんしゅう 66かんを せいして もんかを ろうして
更に 本化文集 六十六巻を 製して 門下を 労して

はんしたに せいしょさせたが ふこうにして はんこう できなかった のみでない
版下に 清書させたが 不幸にして 版行が 出来なかつた のみで 無い

しゃでんしゃ すらなく ほんしょが てんてんとして
写伝者すら 無く 本書が 転転として

たいしょうの だいしんさいで よこはまで うゆうに きしたのは
大正の 大震火災で 烏有に 帰したのは

ごじしゃの そろうを とがめても おいつかぬ ざんねん せんばんの ことである
護持者の 疎浪を 咎めても 追い付かぬ 残念 千万の 事である

にっとうしの こうはい ミョウドウイン にってんじょうにんは よが おんしであるが
日騰師の 後輩 妙道院 日霑上人は 予が 恩師であるが

とうしの しんてい そしょもくろくを しゅうふくして
騰師の 新定 祖書目録を 修補して

ほんそぶんしゅう 44かん どうそくしゅう 12かんを しゅうせいし
本祖文集 四十四巻 同続集 十二巻を 集成し
 
それが のちに くるめの てんみょうじに おさめて あったが
其れが 後に 久留米の 霑妙寺に 蔵めて あつたが

いつしか けっぽんと なったのを ほじゅうを めいぜられて かんぽんとし
何時しか 欠本と 為つたのを 補充を 命ぜられて 完本とし

いまは わが セッセンブンコに ある
今は 吾が 雪山文庫に 在る

よ あんぐで とても げんだいの じいん せいかつは おぼつかないので
予 暗愚で 迚も 現代の 寺院生活は 覚束ないので

たいしょう 4年から しょうにあわぬ ばんむを ほうかして ほんざんの いちぐうに けいきょし 
大正四年から 性に合わぬ 万務を 放下して 本山の 一隅に 閉居し

がっきゅう せいかつに はいってから どう 8 9年のころに
学究生活に 入つてから 同 八 九年の頃に

とうきょうじんで みょうどうこじ たい そうたろうしの はつがんで
東京人で 妙道居士 田井 惣太郎氏の 発願で

ときのがくとう ジカンイン にっちゅうじょうにんを とおして
時の 学頭 慈鑑院 日柱上人を 通して

ごしょ へんさんの くわだてがあった
御書 編纂の 企があつた

にっちゅうじょうにんは その しゅにんを じぶんに しょくせられたが
日柱上人は 其の 主任を 自分に 嘱せられたが

ふがくを はじて かたく じたいした
膚学を 恥じて 固く 辞退した

これと ほぼ どうねんに とうきょうじんの そけいこじ みたに ろくろうしが
此れと 粗 同年に 東京人の 素啓居士 三谷 六郎氏が

やまうちに ざいぼうせし じふぼう にちみょうと ともに きたりて
山内に 在坊せし 慈豊房 日明と 共に 来りて

ぜんしゅう へんさんの しゅにんを こんせいされたが
全集 編纂の 主任を 懇請されたが

にわかに これに おうずるの ばんゆうは おこらぬ
俄に 之に 応ずるの 蛮勇は 起らぬ

そのかわりに しぞうの ざいりょうは
其の代りに 私蔵の 材料は

これを ていきょうするに やぶさかでないと したから
此れを 提供するに 吝かでないと したから

じふぼうは よるをもって ひにつぎ けんさんに つとめて よも おおいに
慈豊房は 夜を以て 日に続ぎ 研鑚に 力めて 予も 大に

しりょうを かたむけたが 
資料を 傾けたが

そけいこじは おもい あきらめず いくどか こんせいを つづけられた
素啓居士は 思いあきらめず 幾度か 懇請を 続けられた

じふぼうが しなのより とうきょうに てんじて しょうわ4年に
慈豊坊が 信濃より 東京に 転じて 昭和四年に

ごしょ しんしゅう はっこうの ことをきいて
御書 新集 発行の 事を聞いて

ひとたびは おどろき ひとたびは よろこんだ
一たびは 驚き 一たびは 喜んだ

それは すうねんの あいだ しぎょうの しょうそくを みみに しなかったのと
其れは 数年の 間 斯業の 消息を 耳に しなかつたのと

この こんなんなことを なしとげた ことであった
此の 困難な事を 成し遂げた 事であつた

さっそく とりよせてみると そのせいかの よきに
早速 取り寄せて見ると 其の成果の 予期に

おおいに はんしたのに きょうがくした
大に 反したのに 驚愕した

おもうに よ ひきなりとも したしく さんかして いたならば
思うに 予 非器なりとも 親しく 参加して 居たならば

この くい なかりしかと ざんこん ここに としを ひさしうした ところに
此の 悔い なかりしかと 慙根 茲に 年を 久しうした 処に

あに はからんや そうかがっかい かいちょう とだ じょうせいしの ねっせいに あわんとは
豈 図らんや 創価学会 会長 戸田 城聖氏の 熱請に 値はんとは

ここに みだりに この たいにんを じゅたくしたのは まったく いじょうの えんいんが
茲に 漫りに 此の 大任を 受諾したのは 全く 已上の 遠因が 

あったからであり かつ また きょらいと いえば ろうどを
あつたからであり 且 又 去来と 云えば 老駑を

むちうって くれる ぎきょうの がくしょうの かならず あるべきを よきし
鞭つて くれる 義俠の 学匠の 必ず あるべきを 予期し

さいわいに とうじょうして ある かいごうの おりに
幸に 東上して ある 会合の 折に

さんかを こんがんしたが いずれも はんたの じょうむの ほかに
参加を 懇願したが 何れも 繁多の 常務の 外に

どう きねんしゅっぱんに とくむを おわせられたり とのことで
同 記念出版に 特務を 負はせられたり との事で

ふこうにして ひとりの どうしをも えず
不幸にして 一人の 同志をも 得ず

やむなくば まんいち とちゅう しっぱいの ほじょたるべき じん すら
止むなくば 万一 途中 失敗の 補助たるべき 仁 すら

とっさに みあたらず このとき すでに ねんまつまで わずかに
突嗟に 見当らず 此時 己に 年末まで 僅に

6かげつで ちほうの がくしょうに こうしょう するの よじつも なく
六ケ月で 地方の 学匠に 交渉するの 余日も 無く

ひゃっぽう けい つきて ひとえに ぶってんの みょうじょを あおぎ
百万 計 尽きて 偏に 仏天の 冥助を 仰ぎ

わずかに 1 2の がくとに じょうしゃを たすけしめて
僅に 一 二の 学徒に 浄写を 助けしめて

さいまつに せいこうせしは まったく みょうがに よるものと かんきゅうする
歳末に 成稿せしは 全く 冥加に 依るものと 感泣する

ことに がっかいの きょうがくぶに おいて たいきょ こうせいに あたり
殊に 学会の 教学部に 於いて 大挙 校正に 当たり

せいむを さきて ちょうじつ ちょうとを おうふく せられたこと
世務を 割きて 長日 長途を 往復 せられた事

および りゃくでん ねんぴょうまで さくせい されたことは
及び 略伝 年表まで 作成 された事は

ぼうがいの ぎょうこうで あった
望外の 僥倖で あつた

ただし へんさんの せいかに そろうなきや
但し 編纂の 成果に 麁浪なきや

はたして ほんぶつの めいりょに かなうべきや いなや
将して 本仏の 冥慮に 協ふべきや 否や

きょうくする ところであるが あえて ろうしんの はいきゅうに たくして
恐懼する 所であるが 敢て 老身の 廃朽に 託して

その せきにんを かいひ するものでは ない
其の 責任を 回避する ものではない

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by hiraganagosho | 2012-10-07 22:59 | じょ (にちこう上人)

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