あんこくろんごかんゆらい (安国論御勘由来) ひらがな漢字交互文

◎あんこくろんごかんゆらい
(ごしょ33ページ13行目から35ページ16行目まで)

(文永5年4月5日 47歳おん作)

しょうか がんねん たいさい ひのとみ 8がつ 23にち いぬいの とき ぜんだいに こえ おおいに じしんす.
正嘉 元年 太歳 丁巳 八月 廿三日 戌亥の 時 前代に 超え 大に 地振す.

どう 2ねん いぬうま 8がつ ついたち おおかぜ どう 3ねん みひつじ だいききん しょうがん がんねん みひつじ だいえきびょう どう 2ねん かのえさる.
同 二年 戊午 八月 一日 大風 同 三年 己未 大飢饉 正元 元年 己未 大疫病 同 二年 庚申.

しきに わたって だいえき おのれまず ばんみん すでに たいはんに こえて しを まねき おわんぬ. 
四季に 亘つて 大疫 已まず 万民 既に 大半に 超えて 死を 招き 了んぬ.

しかる あいだ こくしゅ これに おどろき ない げてんに おおせ つけて しゅじゅの ごきとう あり.
而る 間 国主 之に 驚き 内 外典に 仰せ 付けて 種種の 御祈祷 有り.

しかりと いえども いちぶんの しるしも なく かえって きえき とうを ぞうちょうす.
爾りと 雖も 一分の 験も 無く 還つて 飢疫 等を 増長す.

にちれん せけんの ていを みて ほぼ いっさいきょうを かんがうるに ごきしょう しるし なく. 
日蓮 世間の 体を 見て 粗 一切経を 勘うるに 御祈請 験 無く.

かえって きょうあくを ぞうちょう するの よし どうり もんしょう これを え おわんぬ.
還つて 凶悪を 増長 するの 由 道理 文証 之を 得了んぬ.

ついに やむことなく かんもん いっつうを つくり なして そのなを りっしょうあんこくろんと ごうす. 
終に 止むこと 無く 勘文 一通を 造り 作して 其の 名を 立正安国論と 号す.

ぶんおうがんねん かのえさる 7がつ16にち たつどき やどや にゅうどうに つけて.
文応 元年 庚申 七月 十六日 辰時 屋戸野 入道に 付けて.

こ さいみょうじ にゅうどう どのに そうしん もうし おわんぬ.
古 最明寺 入道 殿に 奏進 申し 了んぬ.

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これ ひとえに こくどの おんを ほうぜんが ためなり.
此れ 偏に 国土の 恩を 報ぜんが 為なり.

その かんもんの こころは にほんこく てんじん 7だい ちしん 5だい ひゃくおう ひゃくだい にんおう だい3だい きんめいてんのうの ぎょうに はじめて.
其 勘文の 意は 日本国 天神 七代 地神 五代 百王 百代 人王 第卅代 欽明天皇の 御宇に 始めて.

くだらこくより ぶっぽう この くにに わたり かんむてんのうの ぎょうに いたって その ちゅうかん 50よだい 260よねん なり.
百済国より 仏法 此の 国に 渡り 桓武天皇の 御宇に 至つて 其の 中間 五十余代 二百六十余年 なり.

その あいだ いっさいきょう ならびに 6しゅう これ ありと いえども てんだい しんごんの 2しゅう いまだ これ あらず.
其の 間 一切経 並びに 六宗 之れ 有りと 雖も 天台 真言の 二宗 未だ 之れ有らず.

かんむの ぎょうに やましなでらの ぎょうひょう そうじょうの おんでしに さいちょうと いう こぞう あり. 
桓武の 御宇に 山階寺の 行表 僧正の 御弟子に 最澄と 云う 小僧 有り.

のちに でんぎょうだいしと ごうす.
後に 伝教大師と 号す.

いぜんに わたる ところの 6しゅう ならびに ぜんしゅう これを きわむと いえども いまだ わが いに かなわず.
已前に 渡る 所の 六宗 並に 禅宗 之を 極むと 雖も 未だ 我が 意に 叶わず.

しょうむてんのうの ぎょうに だいとうの がんじんわしょう わたす ところの てんだいの しょうじょ 40よねんを へて いご.
聖武天皇の 御宇に 大唐の 鑒真和尚 渡す 所の 天台の 章疏 四十余年を 経て已後.

はじめて さいちょう これを ひけんし ほぼ ぶっぽうの げんじを さとり おわんぬ.
始めて 最澄 之を 披見し 粗 仏法の 玄旨を 覚り 了んぬ.

さいちょう てんちょう ちきゅうの ために えんりゃく 4ねん えいざんを こんりゅうす.
最澄 天長 地久の 為に 延暦 四年 叡山を 建立す.

かんむこうてい これを あがめ てんし ほんめいの どうじょうと ごうし.
桓武皇帝 之を 崇め 天子 本命の 道場と 号し.

6しゅうの ごきえを すて いっこうに てんだい えんしゅうに きぶく したまう.
六宗の 御帰依を 捨て 一向に 天台 円宗に 帰伏し 給う.

どう えんりゃく 13ねんに ながおかの みやこを うつして へいあんじょうを たつ.
同 延暦 十三年に 長岡の 京を 遷して 平安城を 建つ.

どう えんりゃく 21ねん しょうがつ 19にち たかおでらに おいて. 
同 延暦 廿一年 正月 十九日 高雄寺に 於て.

なんと 7だいじの 6しゅうの せきがく きんそう ちょうよう とうの 14にんをめしあわせ しょうぶを けつだんす.
南都 七大寺の 六宗の 碩学 勤操 長耀 等の 十四人を 召し 合せ 勝負を 決談す.

6しゅうの めいしょう 1 もんどうにも およばず くちを とずること はなの ごとし. 
六宗の 明匠 一 問答にも 及ばず 口を 閉ずる こと 鼻の 如し.

けごんしゅうの 5きょう ほっそうしゅうの 3じ 3ろんしゅうの 2ぞう 3じの しょりゅうを はし おわんぬ. 
華厳宗の 五教 法相宗の 三時 三論宗の 二蔵 三時の 所立を 破し 了んぬ.

ただ じしゅうを やぶらるる のみに あらず みな ほうぼうの もの いることをしる. 
但 自宗を 破らるる のみに 非ず 皆 謗法の 者 為ることを 知る.

おなじき 29にち こうてい ちょくせんを くだして これを なじる.
同じき 廿九日 皇帝 勅宣を 下して 之を 詰る.

14にん しゃひょうを つくって こうていに ささげ たてまつる.
十四人 謝表を 作つて 皇帝に 捧げ 奉る.

そのご だいだいの こうてい えいざんの ごきえは こうしの ふぼに つかうるに こえ れいみんの おういを おそるるに まされり.
其の 後 代代の 皇帝 叡山の 御帰依は 孝子の 父母に 仕うるに 超え 黎民の王威を 恐るるに 勝れり.

ある おんときは せんみょうを ささげ ある おんときは ひを もって りに しょす とう うんぬん.
或 御時は 宣明を 捧げ 或 御時は 非を 以て 理に 処す 等 云云.

ことに せいわてんのうは えいざんの えりょうわしょうの ほういに よって くらいに つき.
殊に 清和天皇は 叡山の 恵亮和尚の 法威に 依つて 位に 即き.

ていおうの がいそふ くじょう うじょうしょは せいじょうを えいざんに ささげ.
帝王の 外祖父 九条 右丞相は 誓状を 叡山に 捧げ.

みなもとの うしょうぐんは せいわの まつようなり.
源の 右将軍は 清和の 末葉なり.

かまくらの ごせいばい ぜひを ろんぜず えいざんに いはいす てんめい おそれある ものか.
鎌倉の 御成敗 是非を 論ぜず 叡山に 違背す 天命 恐れ 有る 者か.

しかるに ごとばいんの ぎょう けんにん ねんちゅうに ほうねん だいにち とて ふたりの ぞうじょうまんの もの あり.
然るに 後鳥羽院の 御宇 建仁 年中に 法然 大日 とて 二人の 増上慢の 者 有り.

あっき その みに はいって くにじゅうの じょうげを おうわくし よを あげてねんぶつしゃと なり ひとごとに ぜんしゅうに おもむく. 
悪鬼 其の 身に 入つて 国中の 上下を 誑惑し 代を 挙げて 念仏者と 成り 人毎に 禅宗に 趣く.

ぞんの ほかに さんもんの ごきえ せんぱくなり. 
存の 外に 山門の 御帰依 浅薄なり. 

くにじゅうの ほっけ しんごんの がくしゃ すておかれ おわんぬ.
国中の 法華 真言の 学者 棄て 置かれ 了んぬ.

ゆえに えいざん しゅごの てんしょうだいじん しょうはちまんぐう さんのうしちしゃ. 
故に 叡山 守護の 天照太神 正八幡宮 山王七社.

くにじゅうしゅごの しょだいぜんじん ほうみをくらわずして いこうをうしないこくどをすてさりおわんぬ. 
国中 守護の 諸大善神 法味を 飧わずして 威光を 失い 国土を 捨て 去り 了んぬ.

あっき たよりを えて さいなんを いたし けっく たこくより この くにを やぶる べき せんそう かんがうる ところなり.
悪鬼 便りを 得て 災難を 致し 結句 他国より 此の 国を 破る 可き 先相 勘うる 所なり.

また そのご ぶんえい がんねん きのえね 7がつ いつか すいせい とうほうに いで よこう だいたい いっこくどに およぶ. 
又 其の 後 文永 元年 甲子 七月 五日 彗星 東方に 出で 余光 大体 一国土に 及ぶ.

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これ また よ はじまりて より いらい なき ところの きょうずいなり.
此れ 又 世 始まりて より 已来 無き 所の 凶瑞なり.

ない げてんの がくしゃも その きょうずいの こんげんを しらず.
内 外典の 学者も 其の 凶瑞の 根源を 知らず.

よ いよいよ ひたんを ぞうちょうす.
予 弥よ 悲歎を 増長す.

しかるに かんもんを ささげて いご 9ヶねんを へて ことし のちの しょうがつ だいもうここくの こくしょを みるに.
而るに 勘文を 捧げて 已後 九ケ年を 経て 今年 後の 正月 大蒙古国の 国書を 見るに.

にちれんが かんもんに あい かなうこと あたかも ふけいの ごとし.
日蓮が 勘文に 相 叶うこと 宛かも 符契の 如し.

ほとけ しるして いわく わが めつどの のち ひゃくよねんを へて あそかだいおう しゅっせし わが しゃりを ひろめんと. 
仏 記して 云く 我が 滅度の 後 一百余年を 経て 阿育大王 出世し 我が 舎利を 弘めん と.

しゅうの だい4 しょうおうの ぎょう だいし そゆが しるしに いわく 1000ねんの ほか せいきょう この どに こうむらしめん と. 
周の 第四 昭王の 御宇 大史 蘇由が 記に 云く 一千年の 外 声教 此の 土に 被らしめん と.

しょうとくたいしの しるしに いわく わが めつどの のち 200よねんを へて やましろの くにに へいあんじょうを たつべし と. 
聖徳太子の 記に 云く 我が 滅度の 後 二百余年を 経て 山城の 国に 平安城を 立つ可し と.

てんだいだいしの しるしに いわく わがめつご 200よねんの のち とうごくに うまれて わが しょうほうを ひろめん とう うんぬん.
天台大師の 記に 云く 我が 滅後 二百余年の 已後 東国に 生れて 我が 正法を 弘めん 等 云云.

みな はたして きぶんの ごとし.
皆 果して 記文の 如し.

にちれん しょうかの だいじしん おなじく たいふう おなじく ききん しょうがん がんねんの だいえき とうを みて しるして いわく. 
日蓮 正嘉の 大地震 同じく 大風 同じく 飢饉 正元 元年の 大疫 等を 見て記して 云く.

たこくより この くにを やぶる べき せんそうなり と.
他国より 此の 国を 破る 可き 先相なり と.

じさんに にたりと いえども もし この こくどを きえせば また ぶっぽうの はめつ うたがい なき ものなり.
自讃に 似たりと 雖も 若し 此の 国土を 毀壊せば 復た 仏法の 破滅 疑い 無き 者なり.

しかるに とうせの こうそう とう ほうぼうの ものと どういの ものなり また じしゅうの げんていを しらざる ものなり. 
而るに 当世の 高僧 等 謗法の 者と 同意の 者なり 復た 自宗の 玄底を 知らざる 者なり.

さだめて ちょくせん みきょうしょを たまいて この きょうあくを きしょう するか.
定めて 勅宣 御教書を 給いて 此の 凶悪を 祈請 するか.

ぶっしん いよいよ しんにを なし こくどを はえせん こと うたがい なき ものなり.
仏神 弥よ 瞋恚を 作し 国土を 破壊せん 事 疑い 無き 者なり.

にちれん また これを たいじするの かた これを しる.
日蓮 復 之を 対治するの 方 之を 知る.

えいざんを のぞいて にほんこくには ただ いちにん なり.
叡山を 除いて 日本国には 但 一人 なり.

たとえば にちげつの 2つ なきが ごとく しょうにん かたを ならべざるが ゆえなり.
譬えば 日月の 二つ 無きが 如く 聖人 肩を 並べざるが 故なり.

もし この こと もうげん ならば にちれんが たもつ ところの ほけきょう しゅごの じゅうらせつの じばつ これを こうむらん.
若し 此の 事 妄言 ならば 日蓮が 持つ 所の 法華経 守護の 十羅刹の 治罰 之を 蒙らん.

ただ ひとえに くにの ため ほうの ため ひとの ためにして みの ために これを もうさず. 
但 偏に 国の 為 法の 為 人の 為にして 身の 為に 之を 申さず.

また ぜんもんに たいめんを とぐ ゆえに これを つぐ.
復 禅門に 対面を 遂ぐ 故に 之を 告ぐ.

これを もちいざれば さだめて こうかい ある べし きょうきょう きんげん.
之を 用いざれば 定めて 後悔 有る 可し 恐恐 謹言.

ぶんえい 5ねん たいさい いぬたつ しがつ いつか.
文永 五年 太歳 戊辰 四月 五日.

ほうがん ごぼう にちれん かおう.
法鑒 御房 日蓮 花押.

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by hiraganagosho | 2013-08-04 20:22 | あんこく論ごかんゆらい

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