◎きょうきじこくしょう ひらがな漢字交互文2
440ページ1行目
いじょうの この 5ぎを しって ぶっぽうを ひろめば にほんこくの こくしと なる べきか.
已上の 此の 五義を 知つて 仏法を 弘めば 日本国の 国師と 成る 可きか.
ゆえに ほけきょうは いっさいきょうの なかの だい1の きょうおう なりと しるは これ おしえを しる ものなり.
所以に 法華経は 一切経の 中の 第一の 経王 なりと 知るは 是れ 教を 知る 者なり.
ただし こうたくの ほううん どうじょうの えかん とうは ねはんぎょうは ほけきょうに すぐれたりと.
但し 光宅の 法雲 道場の 慧観 等は 涅槃経は 法華経に 勝れたりと.
しょうりょうざんの ちょうかん こうやの こうぼう とうは けごんきょう だいにちきょう とうは ほけきょうに すぐれたりと.
清涼山の 澄観 高野の 弘法 等は 華厳経 大日経 等は 法華経に 勝れたりと.
かしょうじの きちぞう じおんじの きほっし とうは はんにゃ じんみつ とうの 2きょうは ほけきょうに すぐれたりと いう.
嘉祥寺の 吉蔵 慈恩寺の 基法師 等は 般若 深密 等の 二経は 法華経に 勝れたりと 云う.
てんだいさんの ちしゃだいし ただ ひとりのみ いっさいきょうの なかに ほけきょうを すぐれたりと たつる のみに あらず.
天台山の 智者大師 只 一人のみ 一切経の 中に 法華経を 勝れたりと 立つる のみに 非ず.
ほけきょうに すぐれたる きょう これ ありと いわん ものを かんぎょう せよ.
法華経に 勝れたる 経 之れ 有りと 云わん 者を 諌暁 せよ.
やまずんば げんせに した こうちゅうに ただれ ごしょうは あびじごくに だすべし とうと うんぬん.
止まずんば 現世に 舌 口中に 爛れ 後生は 阿鼻地獄に 堕すべし 等と 云云.
これらの そういを よく よく これを わきまえたる ものは おしえを しれる ものなり.
此等の 相違を 能く 能く 之を 弁えたる 者は 教を 知れる 者なり.
とうせの せんまんの がくしゃ とう いち いちに これに まよえるか.
当世の 千万の 学者 等 一 一に 之に 迷えるか.
もし しからば きょうを しれる もの これ すくなきか.
若し 爾らば 教を 知れる 者 之れ 少きか.
おしえを しれる もの これ なければ ほけきょうを よむ もの これ なし.
教を 知れる 者 之れ 無ければ 法華経を 読む 者 之れ 無し.
ほけきょうを よむもの これ なければ こくしと なる もの なきなり.
法華経を 読む 者 之れ 無ければ 国師と なる 者 無きなり.
こくしと なるもの なければ くにじゅうの しょにん いっさいきょうの だい しょう ごん じつ けん みつ の さべつに まようて.
国師と なる 者 無ければ 国中の 諸人 一切経の 大 小 権 実 顕 密の 差別に 迷うて.
ひとりに おいても しょうじを はなるる もの これなく.
一人に 於ても 生死を 離るる 者 之れ 無く.
けっくは ほうぼうの ものと なり ほうに よって あびじごくに だする ものは だいちの みじん よりも おおく.
結句は 謗法の 者と 成り 法に 依つて 阿鼻地獄に 堕する 者は 大地の 微塵 よりも 多く.
ほうに よって しょうじを はなるる ものは そうじょうの つちよりも すくなし.
法に 依つて 生死を 離るる 者は 爪上の 土よりも 少し.
おそるべし おそるべし.
恐る可し 恐る可し.
にほんこくの いっさいしゅじょうは かんむこうていより このかた 4ひゃくよねん いっこうに ほけきょうの きなり.
日本国の 一切衆生は 桓武皇帝より 已来 四百余年 一向に 法華経の 機なり.
れいせば りょうぜん 8かねんの じゅんえんの き たるが ごとし.
例せば 霊山 八箇年の 純円の 機 為るが 如し.
てんだいだいし しょうとくたいし がんじんわしょう こんぽんだいし あんねんわしょう えしん とうの しるしに これ あり.
天台大師 聖徳太子 鑒真和尚 根本大師 安然和尚 慧心 等の 記に 之 有り.
これ きを しれるなり.
是れ 機を 知れるなり.
しかるに とうせの がくしゃの いわく にほんこくは いっこうに しょうみょう ねんぶつの きなり とうと うんぬん.
而るに 当世の 学者の 云く 日本国は 一向に 称名念仏の 機なり 等と 云云.
れいせば しゃりほつの きに まようて しょけの しゅうを いっせんだいと なせしが ごとし.
例せば 舎利弗の 機に 迷うて 所化の 衆を 一闡提と 成せしが 如し.
にほんこくの とうせは にょらいの めつご 2せん2ひゃく いちじゅうよねん ご 500さいに あたって.
日本国の 当世は 如来の 滅後 二千二百一十余年 後 五百歳に 当つて.
みょうほうれんげきょう こうせんるふの じこくなり これ ときを しれる なり.
妙法蓮華経 広宣流布の 時刻なり これ 時を 知れる なり.
しかるに にほんこくの とうせの がくしゃ あるいは ほけきょうを なげうちて いっこうに しょうみょうねんぶつを げんじ.
而るに 日本国の 当世の 学者 或は 法華経を 抛ちて 一向に 称名念仏を 行じ.
あるいは しょうじょうの かいりつを おしえて えいざんの だいそうを あなずり.
或は 小乗の 戒律を 教えて 叡山の 大僧を 蔑り.
あるいは きょうげを たてて ほっけの しょうほうを かろしむ.
或は 教外を 立てて 法華の 正法を 軽しむ.
これらは ときに まよえる ものか.
此等は 時に 迷える 者か.
れいせば しょういびくが きこんぼさつを ぼうじ.
例せば 勝意比丘が 喜根菩薩を 謗じ.
とくこうろんしが みろくぼさつを あなずりて あびの だいくを まねきしが ごとし.
徳光論師が 弥勒菩薩を 蔑りて 阿鼻の 大苦を 招きしが 如し.
にほんこくは いっこうに ほけきょうの くになり.
日本国は 一向に 法華経の 国なり.
れいせば しゃえいこくの いっこうに だいじょう なりしが ごとし.
例せば 舎衛国の 一向に 大乗 なりしが 如し.
また てんじくには いっこうに しょうじょうの くに いっこうに だいじょうの くに だい しょう けんがくの くにも これ あり.
又 天竺には 一向に 小乗の 国 一向に 大乗の 国 大 小 兼学の 国も 之 有り.
にほんこくは いっこう だいじょうの くになり だいじょうの なかにも ほけきょうの くに たる べきなり.
日本国は 一向 大乗の 国なり 大乗の 中にも 法華経の 国 為る 可きなり.
ゆがろん ちょうこうの き しょうとくたいし でんぎょうだいし あんねん とうの き これあり これ くにを しれる ものなり.
瑜伽論 肇公の 記 聖徳太子 伝教大師 安然 等の 記 之 有り 是れ 国を 知れる 者なり.
441ページ1行目
しかるに とうせのがくしゃ にほんこくの しゅじょうに むかって いっこうに しょうじょうの かいりつを さずけ.
而るに 当世の 学者 日本国の 衆生に 向つて 一向に 小乗の 戒律を 授け.
いっこうに ねんぶつしゃ とうと なすは.
一向に 念仏者 等と 成すは.
たとえば ほうきに えじきを いれたるが ごとし とう うんぬん.
譬えば 宝器に 穢食を 入れたるが 如し 等 云云.
ほうきの たとえ でんぎょうだいしの しゅご しょうに あり.
宝器の 譬 伝教大師の 守護 章に 在り.
にほんこくには きんめいてんのうの ぎょうに ぶっぽう くだらこくより わたり はじめしより かんむてんのうに いたるまで.
日本国には 欽明天皇の 御宇に 仏法 百済国より 渡り 始めしより 桓武天皇に 至るまで.
2ひゃく40よねんの あいだ この くにに しょうじょう ごんだいじょう のみ ひろまり.
二百四十余年の 間 此の 国に 小乗 権大乗 のみ 弘まり.
ほけきょう ありと いえども その ぎ いまだ あらわれず.
法華経 有りと 雖も 其の 義 未だ 顕れず.
れいせば しんたんこくに ほけきょう わたって 300よねんの あいだ.
例せば 震旦国に 法華経 渡つて 三百余年の 間.
ほけきょう ありと いえども その ぎ いまだ あらわれ ざりしが ごとし.
法華経 有りと 雖も 其の 義 未だ 顕れ ざりしが 如し.
かんむてんのうの ぎょうに でんぎょうだいし いまして.
桓武天皇の 御宇に 伝教大師 有して.
しょうじょう ごんだいじょうの ぎを はして ほけきょうの じつぎを あらわせしより このかた また いぎなく じゅんいつに ほけきょうを しんず.
小乗 権大乗の 義を 破して 法華経の 実義を 顕せしより 已来 又 異義 無く 純一に 法華経を 信ず.
たとい けごん はんにゃ じんみつ あごん だいしょうの 6しゅうを がくする ものも ほけきょうを もって しょせん となす.
設い 華厳 般若 深密 阿含 大小の 六宗を 学する 者も 法華経を 以て 所詮と 為す.
いわんや てんだい しんごんの がくしゃをや いかに いわんや ざいけの むちの ものをや.
況や 天台 真言の 学者をや 何に 況や 在家の 無智の 者をや.
れいせば こんろんざんに いし なく ほうらいざんに どく なきが ごとし.
例せば 崑崙山に 石 無く 蓬莱山に 毒 無きが 如し.
けんにんより このかた いまに 50よねんの あいだ だいにち ぶっだ ぜんしゅうを ひろめ.
建仁より 已来 今に 五十余年の 間 大日 仏陀 禅宗を 弘め.
ほうねん りゅうかん じょうどしゅうを おこし じつだいじょうを はして ごんしゅうに つき いっさいきょうを すてて きょうがいを たつ.
法然 隆寛 浄土宗を 興し 実大乗を 破して 権宗に 付き 一切経を 捨てて 教外を 立つ.
たとえば たまを すてて いしを とり ちを はなれて そらに のぼるが ごとし.
譬えば 珠を 捨てて 石を 取り 地を 離れて 空に 登るが 如し.
これは きょうほうるふの せんごを しらざる ものなり
此は 教法流布の 先後を 知らざる 者なり
ほとけ いましめて いわく あくぞうに あうとも あくちしきに あわざれ とうと うんぬん.
仏 誡めて 云く 悪象に 値うとも 悪知識に 値わざれ 等と 云云.
ほけきょうの かんじぼんに ごの 5ひゃくさい 2せんよねんに あたって ほけきょうの てきじん 3るい ある べしと しるし おき たまえり.
法華経の 勧持品に 後の 五百歳 二千余年に 当つて 法華経の 敵人 三類 有る 可しと 記し 置き たまえり.
とうせは ご 5ひゃくさいに あたれり.
当世は 後 五百歳に 当れり.
にちれん ぶつごの じっぴを かんがうるに 3るいの てきじん これあり これを かくさば ほけきょうの ぎょうじゃに あらず.
日蓮 仏語の 実否を 勘うるに 三類の 敵人 之 有り 之を 隠さば 法華経の 行者に 非ず.
これを あらわさば しんみょう さだめて うしなわんか.
之を 顕さば 身命 定めて 喪わんか.
ほけきょう だい4に いわく しかも この きょうは にょらいの げんざいにすら なお おんしつ おおし いわんや めつどの のちをや とうと うんぬん.
法華経 第四に 云く 而も 此の 経は 如来の 現在にすら 猶 怨嫉多し 況や 滅度の 後をや 等と 云云.
おなじく だい5に いわく いっさい せけん あだ おおくして しんじ がたし と.
同じく 第五に 云く 一切世間 怨 多くして 信じ 難し と.
また いわく われ しんみょうを あいせず ただ むじょうどうを おしむ と.
又 云く 我身命を 愛せず 但 無上道を 惜む と.
どう だい6に いわく みずから しんみょうを おしまず と うんぬん.
同 第六に 云く 自ら 身命を 惜まず と 云云.
ねはんぎょう だい9に いわく.
涅槃経 第九に 云く.
たとえば おうしの よく だんろんし ほうべんに たくみなる いのちを たこくに うけ むしろ しんみょうを うしなうとも.
譬えば 王使の 善能 談論し 方便に 巧みなる 命を 他国に 奉け 寧ろ 身命を 喪うとも.
ついに おうの しょせつの げんきょうを かくさざるが ごとし.
終に 王の 所説の 言教を 匿さざるが 如し.
ちしゃも また しかなり.
智者も 亦 爾なり.
ぼんぷの なかに おいて しんみょうを おしまずして かならず だいじょう ほうとうを せんぜつ すべし と うんぬん.
凡夫の 中に 於て 身命を 惜まずして 要必 大乗 方等を 宣説 すべし と 云云.
しょうあんだいし しゃくして いわく.
章安大師 釈して 云く.
にょう そうしん みょうふのくきょう とは みはかるく ほうは おもし みを ころして ほうを ひろめよ とうと うんぬん.
寧 喪身 命不匿教 とは 身は 軽く 法は 重し 身を 死して 法を 弘めよ 等と 云云.
これらの ほんぶんを みれば 3るいの てきじんを あらわさずんば ほけきょうの ぎょうじゃに あらず.
此等の 本文を 見れば 三類の 敵人を 顕さずんば 法華経の 行者に 非ず.
これを あらわすは ほけきょうの ぎょうじゃなり.
之を 顕すは 法華経の 行者なり.
しかれども かならず しんみょうを うしなわんか.
而れども 必ず 身命を 喪わんか.
れいせば ししそんじゃ だいばぼさつ とうの ごとく ならん うんぬん.
例せば 師子尊者 提婆菩薩 等の 如く ならん 云云.
2がつ とうか にちれん かおう.
二月 十日 日蓮 花押.
◎きょうきじこくしょう ひらがな漢字交互文 終了
○きょうきじこく抄 ひらがな文へ
■きょうきじこく抄 背景と大意へ
◇きょうきじこく抄 目次へ
総合案内へ
ブログトップへ